清五郎地区の伝承
この集落は、寛永十七年(一六四〇)に、八人の農民により拓かれた。
新発田に移封された領主 溝口氏の新田開発に夢を託し、加賀の国大聖寺三谷村細坪を後にした八人は、村の鎮守春日大明神を奉じて舟に乗り、この地に到り開墾を始めた。
しばらくして仲間のひとり清五郎が病に倒れた。
薬を富山まで求め親身に看病したが、ついに帰らぬ人となる。
皆は夢半ばにして世を去った友を偲び、彼が愛したこの地を『清五郎』と呼ぶことにした。
開墾の苦労は想像を超えていた。鳥屋野潟の水も幾度となく押し寄せる。それでも先人達は助け合い、人力で堤防を築き『清五郎』を守り抜いた。
石碑の建つ場所は、その堤防の名残である。石碑の隣の松は、清五郎川 川口の目印に植えられ『一本松』と呼ばれた。
芦が囲う潟を霧が覆えば、船は方向を失う。かすかに見えるこの松を頼りに、救われた人は多い。
舟人が家路を急ぐ頃、佐渡の端に沈む夕日は水面に映えて、満目の水郷は武陵桃源の趣を見せていた。この情景は明治の漢詩に、鳥屋野潟八景の一つ『清里の夕照』と謳われた。
我々は、この地を見守り続けた堤防と『一本松』を保存し、先人の努力を称えると共に、助け合いの精神が、いつまでも受け継がれることを願い、歴史の一端を石碑に記した。

平成十九年五月

清五郎地区 一本松保存会
財団法人 亀田郷地域センター